鳥見神社の解説

 

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鳥見神社は、饒速日命を主祭神とし、千葉県の印西市、白井市、柏市北東部にまたがる地域に20社が存在します。現在の北印旛沼の西岸から利根川及び手賀沼の北岸の要所要所に釘刺すような形で連なり、これとは逆に北印旛沼の西側から南下して西印旛沼及び新川の南岸に沿って連なる宗像神社13社と対象を描きます。

また、この20社とは別に、利根川の対岸茨城県河内町小林町歩に1社がありますが、これは明暦年間に現印西市小林からの移住があり、その時勧請された旨の由緒があります。移住に関して言えば、印西市中田切には寛文年間に現茨城県利根町中田切からの移住があり、隣接した下井には、先に挙げた20社のうちの1社が鎮座しています。

上記2社は、このような事情から、江戸時代の新田の開拓時の創建が明らかだと思われますが、他に関しては「創建・由緒詳らかならず」というものも多く、『千葉県神社名鑑』などには、江戸時代の創建が記されているものもありますが、麻賀多神社及び宗像神社の踏査の経験から、実は創建はもっと古くに遡るものが多いのではないかと考えています。

その中で、小林及び中根の鳥見神社の由緒には「崇神天皇の御宇5年」とありますが、両神社で同じ年代を掲げていることから、これは個々の神社のことではなく、この辺一帯に鳥見神社(もしくは、その前身)が奉斎された年次を表しているものと考えます。

五十嵐行男氏著の『本埜の地名』という本に、次のような興味深い記事がありました。中根の鳥見神社の至近の旧石器時代から江戸時代に及ぶ大集落遺跡の存在に触れ、“中でも注目されたことは、鳥見神社に関係が深い物部氏が蘇我馬子に滅ぼされた直後の時代の住居跡が急に増加すること…”と書かれています。この付近の鳥見神社の創建時期を考えるヒントになりそうです。

奈良県に、「とみ」と名の付く箇所がいくつかあります。桜井市の鳥見山及び等彌(とみ)神社生駒市の鳥見白庭山石木町登彌神社などです。実際に、印西の鳥見神社に関しても「白庭山の鳥見大明神を勧請した。」という話があるそうですが、桜井市鳥見山も非常に気になるところです。何故なら、鳥見山北麓には宗像神社が存在し、鳥見神社の密集地と宗像神社の密集地が隣接する印旛の状況と奇妙に一致するのです。桜井市鳥見山は神武天皇が即位式を行った所で、等彌神社の祭神は大日霊貴命などであり、饒速日命ではありません。しかし、近接する茶臼山古墳は地元では「饒速日命の墳墓であるとの伝承」があるそうです。しかし、饒速日命の墳墓の伝承地は、生駒や石木町にも存在するとのこと。

特に、生駒は饒速日命の天降った地であり重要です。(ただし、どこの神社であれ、現在あげられている祭神は必ずしも創建時からのものではないと考えるべき…というのが目下の自分の感想であると述べておきたいと思います。)

ここには、物部氏➡饒速日命という図式が出来ていますが、忘れてはならないのはトミ彦、すなわち長脛彦の存在です。生駒には、饒速日命同様長脛彦の伝承が濃厚ですし、石木町にもそれがあります。桜井も「トミ」という山や地名を有していることにおいて、長脛彦の影が伺えます。

谷川健一氏(『白鳥伝説』)によれば、より古くからの先住民である蝦夷が北へ移動せざるを得なくなったのは時代が下ってからであり、その前は近畿にも居住して、長脛彦らはその一派である。それが、後から近畿に侵入した饒速日命を奉づる一派(後の物部氏)と提携して大和一帯を治めていた。その後再び別の一派(神話でいうところの神武軍)により東へ追われることとなり、物部氏も外物部と内物部分かれた…云々。

外物部とは、新勢力には与せず蝦夷と共に行動した物部系の者達であり、内物部とは、新勢力に組み入れられた物部です。記紀の伝承に見られる通り、長脛彦は新勢力に反駁し滅びますが、いわゆる神武軍は勝利したものの、前勢力を無視することは出来ず、鳥見山に彼を丁重に祀った。私見を述べさせてもらえば、そこはやはり、神武天皇が即位式を行ったという桜井市鳥見山なのではないか…。その儀式は、前代の覇者を祀り鎮めるものであり、同時にそれを自らの主催で盛大に行うことによって、これからこの地を治める者は自分なのだという表明をしたのです。

 

印旛に話を戻します。「鳥見」の名称については、古代から白鳥の飛来があったためか?とも言われていますが、白鳥信仰と物部というのも関わりがあるそうです。現在の祭神が饒速日命と伝承されていることを見ても、「鳥見」は物部系の神社に違いないと思います。しかし、印旛に最も関わるのが上記の長脛彦ではないかと推測しています。物部系の神社なら、布留御霊を祀る石上神社、又は物部神社というのもあります。その中で、印旛は何故「鳥見」なのでしょうか?実は、元々の祭神はトミビコ=長脛彦ではなかったか?と思うのですが、いかがでしょう。実はこの後、律令制施行後の印旛郡の管理氏族の状況をみると、ますますそう思えてくるのですが、それについては別項を設けたいと思います。

≪参考文献≫ 『千葉県神社名鑑』 五十嵐行雄『本埜の地名』 谷川健一「白鳥伝説」 印西市史編纂委員会『印西の歴史・第7号』

 

≪追記≫ 今では、鳥見神社の集中域の外と見られて社名も異なる「栄町矢口一宮神社」ですが、これもまた元は鳥見神社ではなかったかと思われますので、ギャラリーの末尾に掲載しました。「鳥見神社ではなかったか?云々」については、ギャラリーで解説しようと思いますが、その根拠としている資料をここに挙げておきます。

・成田市教育委員会『成田史談・57号』佐藤誠氏の論考ー「常陸国風土記」における印波の鳥見の丘の一考察

 

(最終編集日 2017.8月)

 

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