岩屋古墳(龍角寺105号墳)

所在地=千葉県印旛郡栄町龍角寺 1601

 

☆Googleマップでは、住所が「成田市大竹」になっていますが、正しくは「栄町龍角寺」です。1601という番地も、栄町教育委員会で出している「岩屋古墳現地説明会資料」に載っているものですので、間違いないと思います。

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千葉県印旛郡栄町 岩屋古墳

岩屋古墳は、千葉県印旛郡栄町から成田市にまたがる龍角寺古墳群に属する終末期古墳です。

名称=龍角寺105号墳

形状=方墳 三段構築(一辺78ⅿ、高さ13.2m)

 ※周溝を含むと約108mx97mとなる。→全国1の大きさ。

埋葬施設=単室構造の切石積横穴式石室(南側据部に2箇所)

西石室…奥行約5m、幅1.7m、高さ2.5m

東石室…奥行約7m、幅2m、高さ3.5m

築造時期=7中葉~後葉

・周溝=南側を除く三辺に二重に廻る。

 ※周溝のない南側には、人工と思われる舌状張出地形があり、石材運搬使用したのではないかと言われる。

 

石室の主な石材は木下貝層で採取される貝化石を含む軟質砂岩ですが、西石室には、天井石などに絹雲母片岩(筑波石)、入口付近には貝化石を含まない砂岩が用いられています。また、東石室も天井石は絹雲母片岩(筑波石)であり、前庭部にも片岩が使われていました。

二つの石室は、大きさもやや違っていますが、ともにハの字型に開く筑波石が立てられ、短い羨道部があります。しかし、東石室の前庭部にはしきみ石や段状に加工された筑波石等が見られ、これらは「追葬のために石室の構造を改変したため」と設置された案内板に書かれています。

すなわち、東石室では追葬が行われていますが、西石室では行われていないということです。

また、同じ龍角寺古墳群内の浅間山古墳(龍角寺111号墳・前方後円墳)との関係がよく問題にされます。別の勢力集団によるものだという意見もありましたが、石室構造の調査から両古墳の石室が同じ版図を以って作られている可能性が言われており、やはり両古墳は同系列でつながり、更に次代の龍角寺の建立へとつながっていくというのが、現在の一般的な見解となっています。

 

 築造集団について

築造集団については、この地域の伝統的勢力である印波国造の系譜を引く人々ではないかと言われています。律令制施行後しばらくして、この地は印旛郡から分かれて埴生郡となりましたが、それ以前は印波国造の勢力範囲だったと思われます。隣接する公津原古墳群は、至近に印波国造の創建になる延喜式内社(麻賀多神社)を擁し、国造に関連する墓域であることはほぼ疑いないと思われ、そこからわずか3キロの龍角寺古墳群もまた、同じ系統の集団と考える方が自然です。私見ですが、更にもう一つ、両古墳群を同族のものと考える理由があります。それは埴生の地域に、公津原の麻賀多神社に匹敵するような古社がないことです(創建の古さ及び規模において)。そのことから、龍角寺古墳群の地域でも、氏神は麻賀多の神としていたのではないでしょうか?現在、地域に麻賀多と称する神社がありませんが、それは、この地域がやがて印旛郡から分離したことに関わるのかもしれません。更に言えば、元は麻賀多と称していたものが、今では別の名称になっている可能性もあります。その様な例は結構よく見られます。近くの例を上げれば、同じ栄町の矢口一宮神社がその可能性があります。矢口一宮神社に関しては、ギャラリー及び解説のページを設けてありますので、参考にしてください。こちら

かつてあった蘇我氏築造説

築造集団に関しては、かつて「蘇我氏に関わる人物」であるという説があったようです。前述の『房総風土記の丘年報』に座談会形式の記事があり、そこで提出されていましたが、結局その意見には反論が多く否定する方向で討論が終わっていたと記憶します。提出者の根拠は、「大和で蘇我氏の関係者の墓所に方墳が多い」「龍角寺の瓦が蘇我倉山田石川麻呂と関わる法起寺式のものである」という2点でしたが、更に飛躍してそれに関わる当地の豪族は千葉国造であるとまで言っていました。なぜ千葉国造かといえば、その地域に式内社の蘇我比売神社があるからです。

しかし、方墳に関しては、「蘇我氏に関わり無い地でも築造されている。」ということで否定され、瓦に関しても「法起寺式であるからと言って、蘇我氏が関わっているとは言えない。現に物部系といわれる鳥見神社のある地域の木下廃寺でも法起寺式の瓦が出ている。」という

反論がされていました。更に、乙巳の変で勢力を削がれた蘇我氏が、7世紀後半の時期に地方でこのような巨大古墳を作り得たかという問題は、普通に考えても無理だろうと思います。そして、千葉国造及び蘇我比売神社に関しては、自分的にも言語道断だとおもいましたが、これに関してもやはり反対意見が述べられています。「国造本紀にも記載されず、伝承も詳らかでない国造がそんな力をこの時期に持っていたかという疑問。ましてや、印波国造の領域を飛び越えて利根川近くの龍角寺古墳群の辺りまで千葉国造が治めていたとは到底思えない。」ということですが、当然だと思います。千葉国造を持ち出すのは、ひとえに蘇我氏と関連付けたいがために過ぎず、何の根拠も無いことは明白です。実際、印旛には蘇我氏の伝承はほとんどありません。僅かに、印西市鹿黒に蘇我入鹿の伝承がありますが、今のところ私はそれしか知りません。上記の蘇我氏云々の説は、文献資料や地元の伝承を全く無視し、理屈のみで考え出した最悪のものであると考えます。…思わず私情が入りましたが、とにかくその様な説もあったということです。

 

≪参考文献≫ 『房総風土記の丘年報 2』『房総風土記の丘年報 17』 吉村武彦・山路直充編『房総と古代王権』栄町教育委員会発行『岩屋古墳現地説明会資料』『考古ジャーナル』「栄町ホームページ」 その他

岩屋古墳 西石室及び東石室

南側 西石室と東石室(夏)

貝化石含有石

西石室入口 貝化石含有石

岩屋古墳 西石室

     西石室(冬)

岩屋古墳 西石室入口部分

 ひときわ大きい巻貝が見える

絹雲母片岩

石室上部 絹雲母片岩(筑波石)

岩屋古墳 西側から

西側 古墳の前の駐車場から撮影


 

(最終編集日 2017.9月)

 

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