成田市都市計画道路「赤坂台方線」の整備に伴い発掘調査された遺跡です。

5世紀後半の古墳1基と、弥生時代から奈良平安時代の住居跡20軒以上、掘立柱建物4棟が見つかりました。

発掘調査は、平成20年と21年に行われています。

 


大規模な集落「台方下平遺跡」、4世紀末から5世紀の古墳が発見された「台方宮代遺跡」と同台地上に所在する遺跡です。

近隣には公津原古墳群があり、特に北側には船形の麻賀多神社及び公津原39号墳があることが注目されます。

調査された古墳(船形手黒1号墳)は円墳で、時期的にも台方宮代遺跡のものと連続性があり、常総型石枕や、青銅鏡玉類ガラス製勾玉などが出土しました。

 しかし注意を要するのは、同時に検出されている住居跡と古墳は、時期的には一致しないということです。古墳時代の建物は2軒ですが、そのうち1軒のみが古墳と同時期の5世紀で、それは住居ではなく古墳築造に伴う施設ではないかとされています。

その他は、弥生時代のものを抜かすと、7世紀末以降のものであり、古墳築造からはおよそ200年ほどの隔たりがあります。

 調査報告書では、ここは「古墳時代からの伝統的な祭祀領域であった」として、下記に述べる住居や遺跡全体の特徴からこれらの住居は「祭祀に関連する人達のためのものであったと考えられる。」としています。

 

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遺跡の概要

所在地=千葉県成田市台方字鶴巻

現状 =道路(赤坂台方線)

種類 =古墳1基、住居跡、掘立柱建物

 

 以下、古墳と住居跡を分けて記述することにします。住居跡に関しては、主に古墳時代以降のものについて解説しています。弥生時代の付記としては、住居の他に土器棺墓が検出されています。

 

  住居跡の概要

弥生時代ー4軒

古墳時代ー1軒(5C後半)、1軒(終末期)

奈良平安ー住居23軒

     掘立柱建物4軒

盛衰状況

7C中葉から住居が出現するが、9C初頭にいったん消滅。その後9C中葉に再び造営が開始されると数が急増する。しかし、10Cには消滅。

特記事項

公津原39号墳の築造後わずかの期間をおいて、住居の造営が始まる。9C初頭の消滅と再び造営の始まる9C中葉に一つの画期があると考えられる。2つある古墳時代の住居のうち7Cのものは、中央に燃焼部が確認された。しかし、これは竈ではなく、この住居は竈を持たない特殊な構造である。このことから、一般の住居でない可能性がある。また、出土状況から意図的な廃絶が考えられる。5Cの住居は、生活痕跡が無く、

古墳築造に伴う施設である可能性がある。9C後半の3号掘立柱建物は、柱穴が大きく多数あること、土師器埦や高台付き皿などの遺物から、仏教関連施設の可能性がある。

 

出土物(特徴的な物のみ)

 奈良平安住居跡ー墨書土器

   (「酒」「大口?」「立」」「」)

 3号掘立柱建物ー土師器埦

         高台付き皿

 1号掘立柱建物ー皇朝十二銭

        (760年初鋳の「萬年通寶」

         地鎮に用いられた。)

 

  古墳の概要

時期ー5C後半

規模ー径25m(円墳) 

   見かけの高さ 4m

   盛土の高さ 3m

主体部ー墳頂に2基、墳丘下に1基

周溝ー北から東にかけて検出

 

 第1主体部

位置ー墳頂南東

形状ー長軸9.79mの長楕円形

   主軸を北東~南東に置く

埋葬方法ー木棺直葬

時期ー5C第3四半世紀までには築造

出土物ー滑石製常総型石枕立花、石製勾玉

    鉄剣(35cm)直刀2、鉄斧、鉄鏃

    臼玉560点、

    ガラス玉(カリガラス、コバルト着色)

     滑石剥片(祭祀に用いた?)

※石枕は東南端から出土。鉄剣は、被葬者の

 胸の位置にあったと思われる。

 

 

  第2主体部

位置ー墳頂北西

形状ー長楕円形(長軸5m)

埋葬方法ー木棺直葬

時期ー5C第3四半世紀

出土物ー青銅鏡(径7mの倣製鏡)、砥石

    ガラス勾玉2点(紺色)

    直刀2(約98cm、70cm)

    鉄鏃(約20本)

    ガラス小玉166点(ソーダガラス

    ※概ね淡青色だが、黄色2点・

     緑色1点あり。

青銅鏡は、中央よりやや西,棺底から30cm

 の高さの地点から、鏡面を上に向けて出土。

 制作時期は古墳時代前期に遡るとされる。

 腐食が進行し、元々の鋳上がりも良好で

 なかった可能性がある。

 調査報告書には、“文様は、判別が難しいが、

 「変形四獣鏡」に比定した。”とある。

    

 

   第3主体部

位置ー墳丘下北部

規模ー2.69mX0.71m(長方形)

埋葬方法ー木棺直葬

時期ー5C第3四半世紀

出土物ー高坏、土玉、土製紡錘車、鉄鏃

 

○三つの埋葬施設のうち、主体となるのは第1主体部の被葬者だと思われる。第3主体部は、その位置や副葬品から陪葬の可能性があり、第1あるいは第2主体部の埋葬と時期を経ずして行われたと見られる。

 

○墳丘内及び周溝からは、造営時期に属さない古墳後期~奈良平安時代の遺物が検出される。このことから、やや時代の下る時期まで祭祀対象となっていたことが考えられる。

 

以下に、船形手黒1号墳、台方宮代遺跡(2)の3基、台方宮代1号墳、公津原古墳群、公津原39号墳の推定築造順序を記載します。

 

台方宮代(2)2号墳 ➡ 台方宮代1号墳 ➡ 台方宮代(2)1号墳 ➡ 船形手黒1号墳 ➡ 台方宮代(2)3号墳 ➡ 公津原古墳群➡ 公津原39号墳  「台方宮代遺跡」のページも参照してください。ここをクリック  

古墳と住居の造営時期に隔たりがあるものの、墳丘内などから後世の遺物が出ていることは、住居の確認される時期においても1号墳の存在はおおいに意識されていたと考えられます。そうすると、公津原39号墳及び麻賀多神社奥宮の真南にある当古墳の位置が非常に気になります。

 古墳を取り巻く住居跡も、一般の集落ではなく祭祀関係者の居住区の可能性があるということです。更に、区域の消長が、39号墳の築造時期とリンクしているように見えるのならば、時期的に200年ほどの隔たりが有るといえども、39号墳と新たに見つかった台方宮代や船形手黒の古墳とは、やはり何らかのつながりが有ると思えるのですがいかがでしょうか?(私見)

 

≪参考文献≫ 印旛郡市文化財センター遺跡発掘調査報告書『船形手黒遺跡』『船形手黒1号墳

 

(最終編集日 2017.8月)

 

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