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公津原古墳群は、印旛沼の東岸、成田市にある古墳群です。現在の成田ニュウータウン全域と隣接する地域の一部が相当し、平成2年に県の指定史跡になりました。。成田ニュータウンの造成に伴い、昭和44年から46年にかけて調査が開始され、総数120基前後の古墳が明らかになっています。古墳群は、3つの支群に分けられ、それぞれ「瓢塚古墳群」「天王船塚古墳群」「八代古墳群」と名付けられています。間違えてならないのは、この支群は地域によって便宜上分けられたもので、3つの集団が存在し、それぞれが小古墳群を造ったといわけではないということです。総数については資料によってまちまちで、『成田市史』(昭和55年刊)に記載されている支群ごとの総数を合わせると、105基。平成28年の「秋の歴史講演会」で使用された資料では、123基になっています。元々、中世の塚の可能性があるもの、逆に塚だとされていたものが古墳だったりというのはよくあるので、総数の確定というのは難しいのでしょう。現在は、そのうちの40基が住宅内などに保存され、通し番号が付けられています。

とりあえず、『成田市史』には、各支群ごとの墳形の内訳が出ているので、記載します。(古墳番号は、40基保存前の、支群ごとに付けられたものです。資料の通りに記載しました。また、群の解説冒頭に記載されている古墳数は、本文と合致しないものがあるようですが、一応記載通りに掲載し、必要に応じて本文中で解説しました。古墳数についても、以下の各群の説明中に述べていますが、あいまいなところがあるようです。)

 

瓢塚支群前方後円墳1基・円墳23基・方墳17基・墳形不明1基  (このうち現存古墳は7基

 ※3つの支群の中で一番南側に位置し、総数に対する方墳の割合の高さが注目される支群です。1基ある前方後円墳が「瓢塚」で、全長約35m、加良部の住宅地内に小古墳3基と共に保存されています。前方後円墳としての特徴としては、後円部(6m)と前方部(4m)の差が大きく、比較的古い段階の様相を呈しています。『成田市史』には全ての古墳の詳細が記されているわけではありませんが、敢えて言うならば、次のようになります。支群の中でも瓢塚周辺や以南に古相の方墳が見出され、それより北の天王船塚の支群寄りのものは、後期及び終末期のものであるということです。現在イオン成田ボンベルタ店の敷地内に2基の方墳が並んで保存されていますが、元は、同じくらいの規模の方墳が4基並んでいたものでした。これらは皆、終末期のものと見られ、40号墳では金糸木製銅張把頭馬鈴などが出土しています。その他、房総最古ではないかと言われる墨書土器(「耄?」の墨書銘)が、27号墳から出土しました。

円墳の32号墳では、人物埴輪を含む埴輪の出土がありましたが、出土状態が特異であり、資料の言葉をそのまま引用すれば「埋め込まれたというよりも、人物埴輪を中心に、雑然と置かれた状況を呈していた」とのこと。別の資料によれば、周溝の一画に、夥しい破片がわざとまとめたように置かれ、その中心に巫女埴輪の頭部が乗せられていたと言います。このただならぬ状況は何なのでしょうか?その他の出土物は、石枕鎌、刀子、鉄鏃、立花の一部

瓢塚の付近にあった方墳の9号墳は、この周辺では最も古い部類に入り、5世紀初頭かもしくは更に古い4世紀後半ではないかと言われています。台方宮代(2)遺跡の2号墳の方墳と同時期であり、注目に値します。

 

天王船塚支群前方後円墳3基・長方形墳1基・方墳1基?・円墳27基(このうち現存古墳は15基。長方形墳1基は、以前は前方後方墳として扱われていましたが、2015年に行なわれた測量調査により、長方形墳とするほうが相応しいとされました。よって、古い資料には「前方後方墳」とされており、ここで主に参考としている『成田市史』でも、「前方後方墳」と記載されています。)

 ※瓢塚支群の北に位置しています。『成田市史』では、方墳1基になっていますが、他の資料に付随する地図には方墳が7基ほど書き込まれており、このあたりが総数の資料ごとの違いになっていると思われます。どうも古墳数に関しては疑わしい部分があるような感じがします。また、本文中では5基の方墳について触れており、最初に提示されている数値と異なるので、多少の間違えがあるとした上で参考にた方が良いようです。先述の地図の掲載されていた資料が何だったかを忘れてしまい、片手落ちなのですが、地図上の方墳の位置は南側の瓢塚支群の近くに集中しています。このことから、これら方墳の集中域は、方墳の多い瓢塚を中心とする地域と性格的には近いのではないでしょうか?やはり、公津原古墳群の3支群は、便宜上分けられたものだと分かります。

この支群の大きな特徴は、公津原古墳群の中の大型長方形墳及び前方後円墳が、全てここに含まれることです。最大は現在赤坂公園内に保存されている長方形墳の船塚で、全長約85m、高さ7mを測ります。墳形については、上記のように一応「長方形墳」であるとされましたが、墳頂部の形状に乱れがあり、「長方形の基壇に前方後円墳が乗っているのではないか」という説もあります。上から見た形の測量図を見ると、確かにそのようにも見えます。また、本格的な発掘調査はされていないのですが、早い時期に掘ってみた人がおり、その時の話として、「後方部に石棺が存在した」「石枕が出土した」等の伝承がありますが、定かでないのが残念です。埴輪片が採集され、それに関しては、隣接する吾妻のUR住宅付近に埴輪窯が発見され、その供給先が船塚であることが分かっています。家型埴輪らしい破片も見られたという事です。

 船塚の北西の吾妻の住宅内に、石塚が保存されています。全長約40m、高さ4mの前方後円墳です。埴輪が採集されたという記録があります。

 石塚の更に北西に天王塚があります。全長約60m、高さ4.3mの前方後円墳です。墳頂には八坂神社と浅間神社が祀られています。「天王塚」の名称は、牛頭天王を祀る八坂神社があることから来たものです。

 

 これらの大型(中型)の保存古墳は、発掘調査がされておらず、詳細はわかりません。従って、6C前半から7C初頭の間にこれら3基が築造されたとしか言うことが出来ず、築造順序もわかりません。『成田市史』には、船塚古墳の築造時期について、「7世紀代」とする記述がありますが、これは、形状が“前方後方墳”とされていた頃の見解であり、今では見直されるべきものでしょう。

○なぜ前方後方墳とされながら、7Cという新しい築造時期が与えられたかというと、前方後方墳としては形状がはっきりしないため「後代になって退化した形である」と判断されたためです。とにかく様々な問題をはらむ古墳ではあります。

ここで特記しなければならないのは、天王船塚27号墳(又は公津原39号墳、伝初代印波国造伊都許利命墳墓です。公津原の古墳とかなり離れて、麻賀多神社船形社の境内に存在しています。これは、公津原古墳群の発掘当時、この古墳の周辺には他の古墳が確認されていなかったために、天王船塚の支群に入れられたので、この様な形になりました。しかし、その後麻賀多神社船形社の近隣に幾つかの古墳が発見され、その一画で1つの古墳群を形成するような様相を呈しているため、公津原古墳群とは分けて考えた方が良いという見解が生まれていますが、公津原古墳群の通し番号が付いているので、当面は「公津原39号墳」として扱われると思います。

このように、古墳番号をはじめ、39号墳については非常にややこしいので、別項に解説しました。こちら

 

八代支群=前方後円墳1基、方墳4基、円墳26基。(このうち現存古墳は17基

 ※公津原古墳群の一番北に位置します。17基の古墳が保存され、そのうち9基が外小代公園内に保存されています。6基が発掘調査されたといいますが、詳細がわかるほどの成果は得られなかったようです。全体に小さい古墳が多く、1基ある前方後円墳も、全長約23m、高さ僅か2mの小さなものです。発掘されていないので、築造時期なども不明です。その他、円墳とされている物の中に、実は方墳であるものが幾つか存在する可能性があるとされています。そうすると、ここも瓢塚支群と同様、方墳率が比較的高い群になるのかもしれません。特記事項としては、花内(はのじ)玉作遺跡が近くにあります。

 

成田ニュータウン古墳マップ

  ボンベルタ横広場・古墳マップ

ニュータウン古墳マップには、38基しか載っていませんが、それは以下のような理由によります。

39号墳は、上記のように、ニュータウン外の船形にあるため。八代支群内の古墳の1つは話によると、土地の人が「これは、先代が作った塚だ」と主張しているので、標柱が立てられなかったとのこと。それが40号墳になるのでしょうか?

八代支群・外小代公園

    八代支群(外小代公園)

天王船塚支群・船塚古墳

  天王船塚支群(赤坂公園内、船塚古墳)

船塚の画像は、ホームにも載せています。


≪参考文献≫ 『成田市史』原始古代編  千葉県風土記の丘資料館「H28年・秋の歴史講演会資料」(講師・白井久美子氏)

       イオン成田ボンベルタ店横広場内案内板 H28年開催講座資料「成田市船塚古墳の調査について」(講師・今城未知氏)その他

 

(最終編集日 2017.10月)

 

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