宗像神社の解説とギャラリー

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千葉県の印旛沼の西側には、宗像神社と称する神社が13社存在しています。祭神はタゴリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメの宗像三神を祀ります。このように限られた地域に同社が密集してあるのは、全国でも珍しいものです。『印旛郡誌』や『千葉県神社名鑑』を見ると、「社記を喪失し」などとして、創建の詳らかでないものが多いのですが、具体的な年代の記載されているものもあります。印西市瀬戸は寛和元年(985年)白井市清戸は貞観18年(876年)。更に、清戸の記載では「宗像大明神が当下総に当社が最初である。」とされています。

これまで、古代に多氏族(麻賀多神社奉斎)物部氏(鳥見神社奉斎)と共に宗像氏が入植し宗像神社を奉斎して、三氏族が分立していたように漠然と言われてきましたが、上記を考慮するとそう単純なものではないと分かります。当地域には幾つかの氏族が入植したでありましょうが、その時期は必ずしも同時期ではないのではないかと言うことは、その他の様々な事象を検討するほどそう思えてきます。先日それを裏付ける材料の一つになりそうな記述を、印西市教育委員会発行の『印西の歴史 第7号』に見つけました。「印西の女神たち」という研究論考の中の記事に印西市の船尾地区や、松崎地区などで発見された8世紀後半の墨書土器「國玉神」「大神」と書かれたものがある事に言及しています。現在の神社分布から考えると、この地区は明らかに宗像神社の信仰圏に属しますが、そこの人々が土器に書いて祈りを捧げたのは「國玉神」等の土着の神である事は、8世紀後半の段階で「宗像神」は、まだ勧請されていなかったようだという考察です。それは、上記の白井市清戸の由緒と一致します。更に『印旛郡誌』宗像村神社誌の岩戸の宗像神社の項に、「この地の宗像神社は、大和の国春日大社に鹿島香取枚岡の神に付坐する宗像三神を、大社に倣って鎭祭した。(意訳)」とあります。春日大社本殿の南に伸びる道の、若宮社を過ぎて更に進むと、左手に宗像神の社が鎮座していますが、それのことでしょうか?

この記事を考慮に入れると、春日大社の創建は768年ですから、印旛の宗像神社の創建はそれ以降ということになります。

これらから導き出される創建年代は、初代印波国造の伝承を持ちそれを裏付ける古墳群を至近に有する麻賀多神社よりは明らかに新しいと言えるので、国造の時代のような古い時代に宗像神社創建氏族の前身があったとしても、麻賀多神社創建氏族と対等に別の氏神を立てて分立するような勢力ではなかったと考えます。

更に『印旛郡誌』の当記事の続きに、「この神に奉仕せる神家は皆香取を姓として社伝にも古代明(原文のまま)祖先は香取より来たれりと云えり」とあります。確かに、『千葉県神社名鑑』を見ると、全部ではありませんが「香取」姓の宮司さんが多く見られます。香取郡の香取氏は、香取神宮と関わる物部氏の系統だと言われます。そうだとすればこの地域の宗像神は、物部系の者が勧請したことになります。別項で述べようと思いますが、それはこの地域で律令制施行後に主体となったのが物部氏ではないかと思われる事に一致します。また、印旛沼北部に20社以上存在する鳥見神社も、その名称及び祭神を物部氏の祖神饒速日命とする物部系の神社です。(同じ物部系の神社でありながら、宗像と鳥見に分かれていることに関しても、検討が必要ですが、現在調査中です。)

また、奈良県桜井市に等彌神社という物部系の神社があり、その鎮座地は「鳥見山」です。そして鳥見山には宗像神社も鎮座しています。西麓に等彌神社、北麓に宗像神社です。それは、鳥見と宗像が隣接する印旛の状況と見事に一致しています。このことからも、印旛の宗像神は物部氏の勧請であるのは、疑いないようにみえます。ついでに言えば、桜井市は多氏族の本拠地である多神社の鎮座する田原本町と隣接しています。これを加えると、鳥見、宗像に多氏族の麻賀多神社も隣接する印旛の状況と更なる一致をみるのです。これは、偶然とは思われません。

また、もう一つ注目すべきは、印西市平賀及び印西市山田の二つの宗像神社に初代印波国造伊都許利命の創建伝承があることです。伊都許利命は、多氏族の出身で麻賀多神社の創建者です。ここに何故多氏族の伊都許利命の伝承があるのでしょうか?

この事を考えているうちに、あるもう一つの現象に思い当り、現在一つの仮説を立てています。もう一つの現象とは宗像神社と鳥見神社の立地と社殿の向きについて調べているうちに気が付いたものです。(鳥見神社については、まだ全社を訪ねていないので、あくまで今の時点でということになります。)今まで見た限り、宗像神社は基本的に印旛沼の北岸にあり、社殿を水域に向けていました。そして、鳥見神社は印旛沼(現在でなく、かつての水域です。)の西岸又は利根川の南岸にあり、社殿は水域に背を向けています。社殿の向きに関しては「君子南面」の中国思想が影響しているかもしれないので、考慮が必要ですが、鎮座地に関して言うと「吉高の宗像神社」だけ他のものと趣が違っていました。更に吉高の地は、その北方の萩原の鳥見神社とも遠くなく、両神社域の境界線近くということになります。そのことから平賀と山田の二つの宗像神社を考えてみると、こちらは麻賀多神社域との境界に位置するのです。これらのことから、これまで厳然と境界を分かっていると思われていた三種類の神社は、境界部分においては混淆があるのではないかと思っています。

そして、もう一つの鍵は、「氏族の別」というのがいったいいつからのものなのか…、それほど古いものではないのではないか…という問題です。その事を考えている時、ちょうど何かの古代史に関する講演を聞き、その時の講師の先生が同様の問題を投げかけていたことが印象に残りました。その講演の本題とは外れていたので、それ以上の言及はありませんでしたが…。

氏族の問題をこのように考えると、これまで判然としなかった事が解けてくる気がしています。(例えば、いわゆる海人族と呼ばれる人達ですが、時代が下るほど氏族の区別が無くなってくるのではないか?と前々から感じていたのです。)

「時代の考慮をせずに、○○は○○氏」という考えからは解放されなければいけないのだと思います

 

≪参考文献≫ 『千葉県神社名鑑』『印旛郡誌』『印西の歴史 第7号』その他

宗像神社13社一覧

印西市 平賀 1    

印西市 山田 94  

 ”  造谷(つくりや)656     

 ”  大廻(おおば)536 

 ”  瀬戸 1081    

 ”  吉高 700-1

 ”  岩戸 1615    

 ”  師戸(もろと)1109

 ”  吉田 1602   

 ”  船尾 1293

 ”  戸神 920     

 ”  鎌苅 1669

白井市 清戸 553

 

 (最終編集日 2017.8月)

 

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